鬱日記①
鬱々してきた。湧き上がるように、うつうつ、うつうつ・・・天気のせいだろうか、運動をサボっているせいだろうか、寝過ぎているせいだろうか、押し入れからハガキを取り出してしまったせいだろうか・・・
半年前に受け取った時、こんなにも嬉しかったものがこんなにも苦しめるなんて、いや、嬉しかったから、悲しいんだけど、嬉しかったから、台無しにしてしまった自分を責めているのだけれど。訂正可能性と訂正不可能性。過去は変わることはないから、あの時手書きの年賀状を送ってくれた友人がいたことは変わらない。その後、関係性がダメになってしまったことも、変わらない。謝っても許してもらえなかったのだから、もう仕方ない。訂正不可能、嬉しいことがあった、その後悲しいことがあった、その順番が逆だったらよかった。
落ちているとき、どんどん自分を追い込むのをもうやめたい。何もできなくても生きていていいとか、社会の役に立たなくても、生きる権利はみんなにあるとか、他人に対しては思うけど、わたしの場合人に迷惑をかけたり、人を深く傷つけて生きている。それでも生きる権利はもちろんある。わたしは死刑制度には反対だ。どんなに過ちを犯した犯罪者であっても、死刑に課すべきではないと思っている。思っているけれど、自分のことになると、どうしてあんなことになってしまったのだろう。どうして傷つける言葉を言ってしまったのだろう。謝っても許してもらえなかった。拒絶されて終わってしまった。取り返しがつかないことをしてしまった。そんなことをぐるぐる考えていると、死にたいと思う。死刑にしてほしいと思う。人に、大切な人に、拒絶されたくない。でもわたしが、他者を思いやらずに自分の意思を押し通そうとした時にこうなるのだから、拒絶の前に必ずわたしが、わたし自身をコントロールできずにこうなっている。そこを治療して治したいと、これは性格ではなくて症状なんだと励まされて今期よく治療を続けても、繰り返してしまう。繰り返せば、それは性格になってしまうのではないだろうか、もう、わたしはこういう悪い人間になってしまったのではないだろうか。もう、治すことはできないのではないだろうか、わたしはいつかもっと取り返しがつかないことを他人に対してするのではないだろうか。そんなことを考え続けてしまう。苦しい。
昨日、信じることができない、という話を友人とした。わたしはすぐに人を信じてしまう方だと思っていたけれど、そうではなくて、実は誰のことも信じていなくて、だからこそコミュニケーションにおいてしくじってしまうのではないか、という話。わたしは好きな人がいると(恋愛において)その人に合わせてしまう。そのままの自分を受け入れてくれるわけがないと、相手を信用していない。好きな言葉ではないけれど、自己肯定感が低いため、というだけでなく、他者と分かり合えるわけなんかないと思っているし、それはある意味正しいのだろうけれど、それでも少しずつ重なり合う部分があるからこそ、友人になれるし、親しくなれるのだということはわかっているはずなのに、ある一線を越えるとそういうことを忘れてしまう。というか、わたしは分かろうとすることができるけれど、相手にはできない、と自分を過信して、相手を見下してしまっているのだと思う。だからわたしが合わせる、あなたにはどうせわからないのだから、わたしが合わせればいい、そう思ってしまう。そんな極端なことをしているともちろん自分を苦しめる。続くわけがない。恋愛において、と書いたものの、書き出してみると、全てに対してそうかもしれない。友人に対しても、好きな作家さんに対しても、家族に対しても・・・わたしこそ、他者を理解することを最初から投げているではないか、とまた、自虐的になっていく。
人を信じることができない、というのは、人の気持ちはどんどん変わっていくものだから、信じても仕方がない、という諦めもある。最初に言っていたことと違うではないか、と言ったところで、人の気持ちはその人のものだから、変わっても仕方がない。それを揚げ足を取るみたいに攻め立ててもどうしようもない。出会った時の気持ちも本当だし、今の気持ちも本当だし、変化する過程にはわたしの言葉があり、態度があり、その人の置かれている環境があり、社会があり、いくらでも人は変化していく。受け入れるほかないのに、そこでわたしが感情のコントロール機能を失うから、相手にとって、もう2度と関わりたくない人になるのだ。よく理解している。
コントロール機能不全。わたしが自分に病名を与えるのなら。
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