2024年6月22日
よくわからない時間に寝て起きて、寝て起きた。正午すぎ。今日は三時に友人たちと会う約束をしている。こういった約束があると、その時間が何時だろうとギリギリまで寝てしまう。待つということが極端に苦手なのだろう。朝早くに起きて3時の約束の時間まで本を読んだり洗濯をしたり、やれることはいくらでもあるのに、寝てしまう。
横浜のアーティスト仲間の展示が近くでやっているということで、友人たちを誘い、久しぶりに集まることができた。みんな「美術をやっている」というつながりで出会った友達。今のわたしの日常はまるで美術制作からは遠ざかっているものの、そうやって出会った仲間とは共通の話題が多く、楽しい。美術から遠ざかっている、と書いたものの、考えていることは大して変わらない。「現代美術」という表現からは離れ、今は言語芸術に関心があり、アウトプットの方法は違えど、自己表現から離れることはできない。それに、自分が面白いと思ったことをとことんやる、ということは美術だろうが文学だろうが変わらないのだろうけれど、最近では文学が一番自由に表現できる媒体なのでは、と思うようになった。(最近、というのは2020年頃からなのだけれど)頭の中にあるものを表出させるには絵でも文章でも技術がいるように思うけれど、実はどちらも本当に自由で、一人の固有の世界を外の世界に示すということは、その人にしかできないことだから正解も不正解もなく、とにかく自由に表現できるものだとは思う、けれど、視覚芸術は目に見えてしまうから、言語芸術よりもその点が自由さを制限されてしまうように思う。(わたしの場合は)言葉は目に見えないものだからこそ、ひらめきを自分の言葉を繋ぎ合わせてアウトプットして、それをさらに読んだ者の脳内にインプットする際に、その人の想像でさらに自由に思い描くことが可能であり、それは読み手の数だけ何通りも無限にある、と思うと、見えないということはイメージに固執されず、開けているように思う。だからこそ、書くことは本当に比べても仕方ないし、上手に書けば上手に書くほど同じような物になっていき芸術性を失っていく、ということを2020年に「ことばの学校」を受講したことで思ったのだった。
とはいえ言語芸術の世界も美術の世界同様、世の中に出てゆく作品はコンペティションを勝ち抜かなければならない場合も多く、多くの人の目に触れるためには比べられ、優劣をつけられてしまうのだろうとは想像するけれど、昨今の文学フリマの盛況ぶりなどを見ていると、多くの書き手はすでに、自分の興味関心のある対象に向かって没頭し楽しんで言葉にすることを獲得していて、その祭典とも言える「文学フリマ」に参加することで、他者と比べることなくより自由に表現することができている人たちが思った以上にいるんだろうと感じている。
わたしはというと、自分一人の力で文学フリマに参加する力さえない、という自覚があり、自分にしか書けない言葉の並びが、繋がりが、文体が、思考があるとは思っているけれど(そしてそれは誰しもがある)それを簡易な手製本の冊子に仕上げることならできても、装丁、デザインも込みの本という形として表現することで提示する文学フリマにおいて、一人でやり抜く力はない、と思ってしまっている。でも、簡易なホッチキスの冊子でもいいのかも知れない。比べる物ではないのだし。でも、の繰り返し。デザインどころか、校正もできないし、誤字脱字だらけである。だから今はただ書くということをしている。目標がないとだらけるので、応募したい文学賞を定めて書く。8月末までは当面わたしの制作らしい制作はそのくらい。
今日も日記では全くない日記になってしまった。以前のわたしなら人と会った内容も開けすかに書いていたけれど、最近は怖くて書けなくなってしまった。完全にびびって表現の不自由さがある。
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